top of page

第19回「沖縄」研究会@神奈川大学 報告

  • 「沖縄」研究会
  • 2017年11月11日
  • 読了時間: 3分

※前回(2017年2月)の開催から半年以上が経過してしまいましたが、神奈川大学に場所を移転し、心機一転、研究会を再開することができました。お力添えくださった皆さま、また、ご参加くださった皆さま、心よりお礼申し上げます。

 神奈川大学での開催第一回目(通算第19回目)は、小熊誠先生(神奈川大学教授・民俗学)に「屋取の人々と門中」というタイトルでご発表頂きました。常連の皆さま、そして今回新たにご参加くださった方々を含めて、約10名での開催となりました。

 今回、小熊先生が取り上げたのは、「屋取(やーどぅい)」の歴史と現在というテーマでした。「屋取」とは、琉球王国時代、首里・那覇から田舎へ下った貧窮士族、また、彼らが後に開墾した集落のことを指します。新しい集落ということで、「屋取」には御嶽(本土で言う産土神を祀った神社)やノロ(神官)もいないため、従来は民俗学調査には不適とされてきたそうです。しかし、零落士族ならではの「士族」アイデンティティへのこだわりや、祖先探し、「門中」(一族)行事への強い思い入れなど、他の事例とは異なる特殊性が存在していることを小熊先生は指摘されました。

 1689年、王府により系図座が設置され、琉球における身分制が制度的に整備されました。翌1690年の統計では、士族は約6300人でした。しかし1729年の段階では、その2.3倍の約14000人に膨れ上がりました。これにより、失業問題・産業経済問題・住宅問題など、さまざまな問題が発生し、王府は1725年、士族に転職許可令を出します。また、近世琉球の著名な政治家である蔡温によって、1732年に発行された『御教条』には、士族の帰農を奨励する条文が記載されています。このように、「屋取」とは、琉球王府の逼迫した財政に対する一つの解決策として産み落とされた存在でした。ところが、「帰農」といっても、「田舎下り」した士族たちに新たな農地が支給されたわけではありませんでした。そこで、「屋取」の人々は、土地の人々の集落から少し離れたところで塩作りや藍作りに従事しました。とはいえ、貧困生活からの脱却はなかなか難しかったそうです。

 明治に入ると、土地整理事業(本土で言う地租改正に相当)により、土地の私有化が行われ、こうした流れの中、屋取の人々も土地を所有できるようになりました。これにより、「屋取集落」が成立します。人一倍強い「士族」アイデンティティを持った「屋取」の人々は、以後、田畑の開墾に精を出し、また、子弟に対しては熱心に教育を行うなど、沖縄の近代化の中で力をつけていきました。

 現在においても、「家譜」(系図とは異なり、兄弟姉妹・分家まで含めて全ての構成員を記載)の調査・作成を行うなど、「屋取」の人々が自らの来歴を重要視している様子がうかがえます。しかし、彼らは単に「血筋」を重要視しているわけではない、と小熊先生は指摘します。なぜなら、彼らが作成する「家譜」は、必ずしも正確な記録であるとは言い難いからです。彼らは、正確な「血筋」というよりも、自分がどこから来て、どこへ繋がっていくのか、という「物語」を求めていると言えるのかもしれません。今回小熊先生がご紹介くださった、尚宣威王の墓参りに集う湧川門中・普久原門中・泉水門中・そして地元の百姓門中の人々の写真は、そうした「物語」を象徴しているように感じました。「血筋」を共有している証拠はどこにもないにも関わらず、それぞれが互いの間の「つながり」を前提とし、膝を交えて語らう彼らにとって、「家」や「家族」という概念はより幅広い意味合いを持っていると言えるのではないでしょうか。

(文責・SS)


Commentaires


    シダ植�物

    Contact  Me

    研究会に参加を希望される方は、①お名前②ご所属③ご連絡先を明記の上、こちらへご連絡ください。

    okinawanstudies.jindai@gmail.com

    © 2017 by Okinawaology-jindai. Proudly created with Wix.com

    bottom of page