2021年7月2日、第24回「沖縄」研究会を開催いたしました。
新型コロナウイルスの感染拡大を受け、約1年半ぶりの研究会となりましたが、今回はオンライン開催ということで、沖縄からご参加くださった方々も含め、これまでにない人数のご参加をいただき、盛況のうちに終えることができました。
今回の研究会では、徳川幕府の外交や19 世紀の近代東アジアの関係史の研究がご専門のティネッロ・マルコ先生(神奈川大学 国際日本学部 国際文化交流学科 助教)から、「琉球の「三条約」をめぐる明治政府と西洋列強の交渉について」というテーマでご発表いただきました。
1879年の「琉球処分」(琉球併合)は、従来、琉球・清朝・日本(明治政府)の三者間での交渉として、いいかえれば東アジアのフレームの中で議論されてきました。しかしマルコ先生は、琉球処分からさかのぼること約20年前に、琉球とアメリカ・フランス・オランダとの間でそれぞれ締結された修好条約(「三条約」)に注目し、この三国を含む西洋列強の動きをふまえたうえで「琉球処分」を捉え直すことを試みておられます。
そのご成果は、マルコ先生のご著書『世界史のなかの「琉球処分」』(榕樹書林, 2017)にまとめられていますが、今回はその中でも、西洋列強、とりわけ琉米修好条約を結んだアメリカと明治政府との交渉の経緯と、琉球処分に与えた影響についてご説明がありました。
江戸時代、幕府は琉球を日本の属国と位置づけていました。そして明治政府にとっても、琉球の所属問題は、当初は日本と清朝の間の問題であると認識されていました。一方、幕末になると、西洋列強からも琉球の所属問題を問われるようになっていました。そのため明治政府の井上毅は、国際情勢を鑑みた場合、琉球併合を行うにあたって、この「三条約」の存在が障害になると考えました。
江戸時代末期の1854年、琉球はアメリカと琉米修好条約を締結しました。同条約は翌年、アメリカ政府により批准されました。これによりアメリカは、自由貿易と、アメリカ人の琉球内での自由な移動が許されるという特権を得ていました。そのため、琉球が日本に併合され、同条約が無効化されれば、アメリカはこれらの特権を失う可能性がありました。
にもかかわらず、なぜアメリカは琉球処分に介入しなかったのでしょうか。それは、明治政府とアメリカ政府との水面下の交渉により、明治政府が琉球併合後も同条約を引き継ぎ、その特権をアメリカ政府に認める代わりに、アメリカ政府が琉球併合を黙認したためでした。またこの一連の交渉は、もう一方の当事国である琉球を抜きに進められました。
研究会では、「三条約」の当事国であるフランスとオランダ、そしてイタリアやドイツと明治政府との間で行われた類似の交渉の経緯についてもご説明がありました。
琉球処分は、その当時すでに国際的な問題に発展する可能性がありました。そのため明治政府は、西洋列強と事前に交渉を進めることで、琉球処分を黙認させるという手段をとりました。マルコ先生からは、こうした西洋列強の動きをも射程にいれたうえで「琉球処分」を再検討することへの展望が示されました。
参加者からは、琉球の主権をめぐる問題が、このときから当事者抜きに進められていた点や、明治政府の外交政策、また当時の国際法の位置づけ等について、質問やコメントが寄せられました。
またアメリカ政府との交渉に深く関与した副島種臣外務卿について、参加者の方から興味深いコメントがありました。副島の故郷である佐賀藩は、幕政下では長崎の警備を担当していましたが、1808年のフェートン号事件を受けて藩主が処罰されたことから、江戸幕府の開国に先立って近代化と西洋の研究を進めていました。副島の外交手腕は、こうした周辺環境の影響を受けて培われてきたものかもしれない、とのことでした。
琉球処分は、近代の国家観や法制度などが確立されていく過渡期のできごとであったこと、一方でその痕跡が現代もなお残り続けていることを再認識するとともに、19世紀の琉球という存在に、日本や清朝のみならず、西洋列強がこれほどまでにこだわった理由は何だったのかといった点にも関心が広がるご発表でした。
(文責NY)
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